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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ スペイン : [すぺいん] (n) Spain, (n) Spain
トレド()はスペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州のムニシピオ(基礎自治体)。カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都であり、トレド県(人口約60万人)の県都である。マドリードから南に71kmの距離で、タホ川に面する。 かつての西ゴート王国の首都であり、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した地である。「町全体が博物館」と言われ、タホ川に囲まれた旧市街は世界遺産に登録されている。また、ルネサンス期のスペインを代表するギリシア人画家のエル・グレコが活躍した町としても有名。 == 歴史 == 先史時代から人が住んでおり、ローマの領地となってからは「トレトゥム」と呼ばれた。西ゴート王国がイベリア半島を支配したのち、560年にアタナヒルド王によって首都とされた。トレドでは400年に第1回トレド教会会議が開かれていたが、西ゴート時代にもたびたび教会会議が開かれた。これによりトレド司教座の権威が高まり、イベリア半島全体の首座大司教座となった。 711年、ウマイヤ朝の指揮官ターリク・ブン・ジヤードによって征服され()、イスラム支配下に入った。1031年に後ウマイヤ朝が崩壊すると、タイファ諸国の1つトレド王国の領域となった。1085年、カスティーリャ王国による長期の包囲ののちトレドは降伏し、アルフォンソ6世は5月26日にトレドに入城した。1086年10月23日にサグラハスの戦いでムラービト朝のが率いるイスラム軍の救援部隊の前にアルフォンソ6世は敗走したものの、カスティーリャ王国はムラービト朝の攻撃からトレドを守り抜いたため、トレド征服はレコンキスタの節目の1つとなっている。 12世紀から13世紀、(Escuela de Traductores de Toledo)と呼ばれる学者が活躍した。イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の共同作業によって、古代ギリシア・ローマの哲学・神学・科学の文献がアラビア語からラテン語に翻訳された。この成果が中世西ヨーロッパの12世紀ルネサンスに大きな刺激を与えた。 トレドは鉄製品、特に剣の生産で有名となり、現在でもナイフなど鉄器具の製造の中心地である。トレド征服以降、カスティーリャ王国やスペイン王国は定まった首都を持たず、トレドは一時的な宮廷の所在地であった。1561年、フェリペ2世がトレドからマドリードに宮廷を移すと、マドリードが首都として確定し、トレドはゆるやかに衰退を始め、現在に至っている。 1577年ごろギリシア人の画家エル・グレコがトレドに定住し、1614年に没するまで数々の傑作を残した。19世紀以降にエル・グレコは重要な画家として再発見され、現在ではトレドとエル・グレコは結び付けられて語られるようになった。 トレドのアルカサルは、19世紀から20世紀には有名な軍学校として使われた。1936年、スペイン内戦の初期に、共和国軍によってフランコ軍の守備隊に対するアルカサル攻囲戦(en)が行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トレド」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Toledo, Spain 」があります。 スポンサード リンク
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